会社のロゴは、女性の顔の横顔をモチーフにしたシンプルなものです。ラベルは“幸せをもたらす夕日の”オレンジ色、紫と金が際立っていますが、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノが名高い格式あるワインであるため、その強い色合いで批判されました。色以外のイメージの中で自分自身を表現できるものを模索しましたが、それは時間が解決してくれました。なぜなら、20年経ち、コル・ディ・ラモのボトルは間違いなく認識されているからです。また“コル・ディ・ラモ”という名前は「娘と同じように」私が選んだもので、自分の農家の名前を使い、家族の名前は手放しました。父親が築いた成功の代名詞を使えば、もしかしたら未来に繋がる何かがあるかもしれなかったですが、近道をせずにそこに到達できれば、満足感はさらに大きいと思ったからです。 時には簡単な生活ではないこともありましたが、「自分の信じたことをやり、お金ではなく情熱を追い求める」ために勇気を持ちました。 ワイナリー周辺の風景は天国のようです。私達はトッレニリの町に近く、モンタルチーノから数キロ離れた、世界で最も高貴で有名なサンジョヴェーゼを生み出す丘と土壌にあります。1971年にこの土地を購入したのは、先見の明のある種子トレーダーである父親のジョヴァンニでした。私たち3人の子供は週末、夏休みをそこで過ごし、それから勉強も兼ねてシエナに引っ越しました。父の造ったワイナリー“カサノヴァ・ディ・ネリ”は成長しましたが、その当時はまだ世界的に有名になるには程遠く、会社の運命を背負う男の兄弟であるジャコモの道は決まっていました。私は代わりに法律を学び、最高成績で卒業しました。父親は私が銀行家になることを望んでいたと思いますし、卒業後はオファーもありましたが、断わりました。私の最初の仕事は大学の教師でした。 すでに 80 年代はブルネッロの台頭にとって重要な時期でしたが、90 年代には会社は倍に成長し、世界に認められました。皆が疑問視している私の個人的な経歴のお話をすると、結婚しており、娘がいます。父親のジョヴァンニが亡くなり、会社内のバランスが変わり、日常生活で、自分自身を取り戻したいという想いが芽生え、離婚をしました。
私は夫のもとを去り、カサノヴァ・ディ・ネリのもとを去りました。ディレッタ(娘)がとても幼い頃のことでした。私はシエナに家を持っており、ここに葡萄畑の所有権がありましたが、この頃が人生における困難な時期で、葡萄は唯一の生計手段でした。 2000 年にトラクターを購入するための最初の農業為替手形に署名し、2003 年ヴィンテージのボトルがコル・ディ・ラモのデビューとなりました。 私は最初のワインを友人のセラーで造りました。その後、私が配置し直した2つの納屋とスチール製の小屋でワインを造りました。当時、イタリアではガレージ・ワインは流行しておらず、ましてやトスカーナでは全く知られていませんでした。 2015年にオープンしたワイナリーは信じられないほど近代的で統合された構造となっており、このプロジェクトを信じてくれた銀行に感謝しています。入り口のプレートには、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの「あなたの人生に夢を、そして夢を現実に」という署名が刻まれています。 2017年にはオーガニック認証を取得し、娘ディレッタとの協力関係がますます重要になり、通常は過去の偉人に捧げるような、蔵で一番のラベルを娘に捧げました。私は未来を信じており、そして私が笑い、再起したのを見守りながら、共に泣いたり心配してくれた娘に敬意を表しているからです。 この特別なセレクションとリゼルヴァは、最高のヴィンテージ、または天候に恵まれたときにのみ発売されます。一方、コル・ディ・ラモのブルネッロはすでに私(友人たちにとっても) 自身の表現です。寛大な粘土質の土地、快適な温度変化がワインの特徴を形作っています。 ロッソ・ディ・モンタルチーノは、ジューシーでエレガントな飲み心地で、オークでの熟成もポイントの一つです。ラモIGT(スーパータスカン)はカベルネ・ソーヴィニヨンを一部使用した、私のファンタジー・ワインです。「イノベーションとは、心が求めることに応えること」、私は常に自分のやりたいことをやっています。私はショッピングやファッションが好きではなく、自由時間には本を読むか散歩することが好きで、ワインの醸造さえも常に変化する流行には従いませんでした。むしろ、変に手を加えることはせずに葡萄そのものを生かし、コル・ディ・ラモが職人であり続けたいと思っています。 高く評価されているのは、比較を恐れない誠実さだと思います。外見が重視される社会においてさえ、人の本質は見えます。自分の本質と違う自分を見せることはできないと言うのは、ワインにも当てはまります。